高岡と職人たち
高岡の金工と漆芸には約400年余りの歴史がある。慶長16年(西暦1611年)、加賀藩主、前田利長が高岡へ入城。その際、城下町繁栄における産業政策の一環として、西部金屋(現、砺波市・高岡市の市境)から現在の高岡市金谷町に7人の鋳物師を招き、工場五棟を建てたことが高岡銅器の始まりとなる。金屋町ほとりを流れる千保川により、良質の川砂と大量の水が使えた鋳物師たちは加賀藩の手厚い保護を受け、高岡の金工は大きく発展していった。
鋳物文化のはじまり
利長と七人衆
利長公が高岡に招き産業振興の礎としたのは、当時の勅許鋳物師、金森弥右衛門、喜多彦左衛門、藤田与茂、金森与茂、金森与兵衛、金森藤左衛門、般若助右衛門の7名であった。その後利長公は鋳物師に対して手厚い保護を加え、産業の発展に尽力した。
慶長14年(1609年) 前田利長公が高岡に築城
慶長14年3月、富山城が焼失したことにより、新たな城を高岡に築城。利長公は高岡への入場後5年でその生涯を閉じる。その翌年、徳川幕府により「一国一城の制」が制定され高岡城は廃城を余儀なくされる。
慶長16年(1611年) 400年前、7人の鋳物師が金屋へ。
慶長16年、前田利長公が高岡入城に際し、7名の鋳物師を招き、現在の高岡市金屋町に工場五棟を建設し鋳物場とした。これが後の金屋と高岡銅器の始まりである。
写真:「前田利長書状(部分)」高岡市立博物館蔵
昭和49年〜 (1974年) 高岡伝統産業青年会、発足
高岡商工会議所の青年部から若手メンバーが集まり、業界や業種を超えた総勢500名余りが結集して「高岡伝統産業界」が発足した。発足当初より今に至るまで様々な活動を活発に行い、業界の力の源といえる存在になっている。
昭和50年〜 (1975年) 高岡銅器、高岡漆器が国より伝統的工芸品の産地指定
高岡にて伝統的な技術や技法が現存していることが認められ、技術の保全、後継者確保、伝統工芸の振興を目的として、昭和50年、高岡銅器と高岡漆器が同じ年に国の伝統的工芸品として指定を受ける。